性器をモチーフにするということはアリかナシか

  • Posted on: 2014年8月19日
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今回は検索エンジンにも嫌われかねない題材を扱います!
話題になったこのあたりのお話に触発されています。

※以下、個人的見解スタート

表題の問に対して、

「アートは自由な表現が許されていてモロダシもありっしょ!」
「なんで政府やメディアに罰せられる意味がわからん、『表現の自由』の侵害だ!」

という主張が周辺で見受けられますが、それはどうも短絡的だと思います。
表現の自由という理由では、規制や常識を突破する根拠にはならない。

表題の問に対しての私の結論としては、「条件付きアリ」です。
表現には制約がつくということは否定できません。

法や公権力が明確に存在する社会の中で、
制約やリスクを自覚して欲しいですし、
それにあえて立ち向かった欲しいですし、
タブーを作品として取り上げる意義や歓びを強く主張して欲しい。

この意識こそメディアに「自称」と書かれないアーティストの表現における「条件」ではないでしょうか。

アートの解釈は自由なので、「猥褻物」と解釈することも自由

アートの解釈は自由でありながら、作品が「反社会的な猥褻物だ」と解釈されることを無理解だと嘆き糾弾することが大きな矛盾だと思います。

アートは言ってしまえばタチの悪い冗談です。
アーティストのリスクとして、「曲解をうけること」があります。

世の中、冗談が通じない人はいます。

もし、自分の制作物が曲解を受けるのが耐え切れないのなら、正統な手段で主張するべきだと思います。
しかし「自由な表現を侵害された」と訴えるのは、論点がずれています。

その点、冒頭に上げた3つのエピソードでは、アーティストはそれぞれこのあたりを自覚した上での表現行為だと思います。

けっきょく解決するのは作家の思い

アーティスト(もしくはアートを展示する学芸員、画商)は、なぜ性器を題材として選びとったか、画面の中に入れることを選んだか、を説明する必要があります。

大げさですが、その作品と表現がどれだけ意義のあることか、世の中に良い影響を与えるか、自分や自分以外に生きがいを与えているかを主張すべきです。

そして、その説明に熱意や一貫性があって初めて評価され、擁護されます。
逆に、猥雑な表現だけで、一貫した主義主張もなく生み出された作品は、政治家の失言と同様、あからさまな地雷をただ踏みに行ったドジっ子に同じです。

この点、冒頭に紹介した3つのエピソードは全て勇気と熱意によって多くの人間を納得せしめた例と言えるでしょう。

というか輝くアーティストの姿とは、こういった愚直な創作と主張の積み重ねなのかもしれません。

鷹野氏の対応はまじアート

私は個人は、とくに冒頭の記事の鷹野氏の対応は非常にクールでかっこいいと思いました。
なぜならば、規制を求められたこと自体を、自分の作品スタイルをさらに昇華させてる材料としたからです。
下半身あらわにした男性の写真の展示を、警察に自粛するよう要請されたましたが、自粛するのではなく、布でかぶせて局部を隠すという対応をとりました。
一枚の布で写真を覆うことで、逆に男性の露出を隠す不自然さ、公権力による猥褻物の定義の未熟さが浮き彫りになります。

さらに、美術史上の有名なエピソードを自身の作品とつなぐことに成功しています。
明治時代、黒田清輝の裸婦像がわいせつという理由で展示中にも関わらず布で覆われたエピソードを類推させます。鷹野氏のこの一件もあたかも脈々と続く美術の歴史の線に乗っている話のように思わせてしまいます。
(批評家がこんなこと言い出したときには、市場価値がググっとあがる。)

もう一度、言いたかったことを書きます。。

アーティストは、法や公権力が明確に存在する社会の中で、
制約やリスクを自覚して欲しいですし、
それにあえて立ち向かった欲しいですし、
タブーを作品として取り上げる意義や歓びを強く主張して欲しい。

これらを自覚してこそメディアに「自称」と書かれないアーティストではないでしょうか。
これをクリアしてれば、真に何でもアリです。
言い換えると、成功しているアーティストはもれなく上記を実践していると思います。

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