ラファエル前派展でロセッティ先生に共感しまくった件

  • Posted on: 2014年3月1日
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本日の行った

展覧会名 ラファエル前派展 英国ヴィクトリア朝時代の夢
会場 森アーツセンターギャラリー
開催期間 2014/1/25(Sat)-4/6(Sun)
展示作家 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティウィリアム・ホルマン・ハントジョン・エヴァレット・ミレイ、他
主催 テート美術館、朝日新聞社、森アーツセンター、テレビ朝日

えぇ、私好きなんです。ラファエル前派。
本展の展評を書くにあたってどこから語り始めればわからない。

ラファエル前派の代表をなす人物画や宗教画の数々に加え、男女関係の相関図や、モデルとなった女性の細かな来歴などが展示の合間に挿入されてたりと、濃厚な企画展示になっておりました。

ラファエル前派と言えば、バーン=ジョーンズウォーターハウスが描くVogueやBAZAARに載っているスーパーモデルもびっくりな超絶美形で幻想的な女性の顔立ちになまがつおは生涯着目し続けるでしょうが、本エントリでは泣く泣く話題を絞り、ロセッティ先生となまがつおの心の交歓を綴りたいと思います。ごめんなさい。

華麗?な男女関係

ダンデ・ゲイブリエル・ロセッティ《プロセルピナ》 1874年

ダンデ・ゲイブリエル・ロセッティ《プロセルピナ》
1874年

ロセッティの代表作『プロセルピナ』。
パーツ全て整った顔面、ザクロを握る左手に右手を添える所作、首筋から背中までのS字型のライン。
狙っておりますね、見てますね、先生。
この絵画のモデルの女性に対して画家はなみなみならぬ感情を抱いているように感じられます。
しかし、このモデルのジェーン・バーデンは、ウィリアム・モリスの奥様なのです。
えぇ、三角関係です。

モリスとロセッティは共同名義で屋敷を借り、そこにジェーンと住むという奇妙な生活をしており、メディアでスキャンダルにもなっています。
この関係のみならずロセッティ先生は色々やらかしているようです。
ロセッティ始め、ラファエル前派周辺画家の男女関係の華麗さやゲスさを「サークル内恋愛」と表現している下の記事が秀逸でした。
あわせてどうぞ。

そもそも、この絵画の主題である「プロセルピナ」(ローマ神話名。ギリシア神話名ではペルセポネ)とは、三角関係を示唆する女神です。
冥界の王ハデスに地底へと連れ去られ妻になります。
しかし、母であるケレース(ギリシア神話名:デメテル)に助けられ地上に帰還するものの、ザクロを口にしたため一年のうち1/3を冥府で過ごすことになります。
地上と冥府でとり合いになっているわけです。
古代からモテまくるのも大変だったようですね(遠い目

耽美主義的傾向

ロセッティ先生の女性の描き方は、耽美主義的と言えます。
耽美主義とは、ボードレールユイスマンスに代表される19世紀末のこじらせ系思想です。
ごく普通にホワイトカラーやブルーカラーとして健気に働く都市の生活者を「俗物的小市民」として敵視し、本当の美を理解し愛しているのは自分たちだけであると陶酔的に浸るのが彼ら。
また、本来庇護するべき女性に対しても、その美しさから身を滅ぼし破滅しかねない心の危うさを持っており、耽美主義の文学者や思想家は「ファム・ファタル」(=仏語で運命の女性、男を陶酔させ破滅に導く女性の意)という言葉を好んで用いました。

ラファエル前派の画家達も思想的影響を少なからず受けており、彼らが見出す女性の美というのは確かに「ファム・ファタル」的と言えます。
とりわけロセッティは濃厚な色合いで装飾性豊かな女性の美を追求した画家でしょう。

先の『プロセルピナ』において、確かに誰もが美しいと感じうる普遍的な美女像を描いていますが、そのどこかに、固有の男性としてバイアスかかった目で見て描いているなと感じます。
目鼻立ちがくっきりしていて、気が強そうで、堂々とした存在感も伝わってきます。
こうした女性像がロセッティを魅了した「ファム・ファタル」なのだと思います。
ロセッティ自身がイタリア系だったので濃ゆい顔立ちが好きなのかもしれないです。

画家が女性を描くとき

ダンデ・ゲイブリエル・ロセッティ《最愛の人》 1865-66年

ダンデ・ゲイブリエル・ロセッティ《最愛の人》
1865-66年

実際、絵画というのは、世の中に存在する生物や物体や事象、はたまた心の心象を、画家が客観化(見える化)したものと言えます。
時に抽象化したり、精緻に具象化したりする。
が、いかなるモチーフを描くときであろうと、作者のかけたメガネが色濃く出てしまう。

そこがおもしろい。

女性像なんかはそれが本当に顕著。
ルーベンス、ゴヤ、ルノワール、ピカソ、マティス、あらゆる画家がそれぞれの女性の描き方をしています。

ラファエル前派の画家たちの場合は、おそらくごく普通なのであろう女性のどこかに、男をダメにするファム・ファタルを勝手によみてとってしまうような心の癖があるのでしょう。(だぶん80%は作家の妄想だと思う)
普通の生活を営む一般的な女性の中で、一瞬見える「お姉様」的要素とそのギャップが好きなのだろうなと思います。

ええ、なまがつおも禿同ですよ!

絵の好みは画家の「視点」に共感できるかどうか

叫んで落ち着いたところで、ロセッティさんと心の交歓の果てに本当になまがつおが主張したいことは、特定の芸術を好きになる要因は、対象の捉え方や見方が自分と作家で近かったり共感できる部分があることだということです。
逆に、自分が作家のものの捉え方に納得できない場合は、「すごいと思うけど嫌い」というような村上隆が良く言われてそうなフレーズがでてくるわけです。

そう考えると、アートって自分を映す鏡のようでおもしろいですね。

最後に本展でも登場していた作品を紹介したいと思います。

ダンデ・ゲイブリエル・ロセッティ《見よ、我は主のはしためなり》 1849-50年

ダンデ・ゲイブリエル・ロセッティ《見よ、我は主のはしためなり》
1849-50年

主題は聖書の名場面、受胎告知です。
光輪を持つ二人の人物、左の女性はユリの花を持つこと、光輪をもった聖霊である白鳩が描かれていることから明確に場面を特定できます。

が、ルネサンスから続く図像学的な規則からは逸脱し、現代風に再構築されています。
お告げを告げる大天使のはずの人物は白衣姿で装飾性はいっさい無し。
通常青いローブをまとう聖母であろう人物も、同じく質素な白衣姿。
また、懐胎のお告げに対して身を壁に寄せる仕草と相手の目ではなく相手の手元を見る表情から、どうみても処女懐胎を受け入れられていない怯えの似た内面が読み取れます。
完全にお告げにひいちゃってますね。

ただこの「引き方」が現代の感覚ではリアルなんだと思います。

同時代のとある病室で妊娠の知らせに戸惑う女性を描いたように感じられながら、聖書の場面を借りた幻想的な作品です。
この絵画は「不適切」な描き方だと批判も受けましたが、画家は惑う女性像と聖母を重ね絵画したかったのでしょう。
敢えて白衣で質素に描かれた二人の姿も、無垢さや潔癖さを際立たせていると言えます。
この姿や聖母のとまどいの表情の描き方は、時代を超えて普遍的に共有できるように感じられ、形式的な書き方よりも今を生きる我々に情感持って訴えかける何かがあります。
生で拝見できてよかったっす、先生・・・。

気持ち悪い展評になってしまいましたが、最後まで読んで頂きありがとうございます!

参考

ラファエル前派のお勉強本。

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  • そういえば、ロセッティの絵を見て、荒木飛呂彦さんの描くお顔が思い出された。目鼻立ちがはっきりしていて濃ゆいところがどことなく似ている気がする。